病院のM&Aを検討している理事長・院長から、決まって最初に出てくる質問があります。「うちの職員はどうなりますか?」。長年ともに働いてきた医師・看護師・事務スタッフへの影響を心配するのは、経営者として自然な感情です。
一方、譲受側(買う側)の法人にとっても、職員の処遇は経営統合の成否を左右する最重要課題のひとつです。優秀なスタッフが大量離職すれば、承継後の医療の質と収益は急速に低下します。帝国データバンクの2025年調査によれば、医療機関の倒産・休廃業解散は合計823件で2年連続過去最多に達しており、後継者不在や経営難を理由にM&Aによる早期解決を検討する病院は今後さらに増えることが見込まれます。
本稿では、病院M&Aにおける職員・スタッフへの影響と、承継前後で実務的にとるべき労務対応のポイントを解説します。
スキーム別に見る「雇用継続」の仕組み
病院M&Aにはいくつかのスキーム(手法)があります。なかでも雇用継続の観点で最も重要な分岐点は、「持分譲渡」か「事業譲渡」かという点です。スキームの選択は税務・法務面だけでなく、職員の雇用形態にも直接影響します。
持分(社員権)譲渡の場合
医療法人の社員権(出資持分)をそのまま新しい経営者に移転する「持分譲渡」では、法人格は存続します。つまり、法人と職員の間の雇用契約は原則として変わらないまま、経営者だけが交代します。雇用契約の当事者(医療法人)が変わらないため、職員一人ひとりの同意を個別に取得しなくても雇用は自動的に継続されます。
ただし、「経営者が変わる」という事実そのものが職員の不安や離職動機になりえます。特に前の理事長と強い人間関係を持つ幹部医師や看護師長が動揺した場合、その影響は周囲に波及しやすいため、適切な告知とコミュニケーションが欠かせません。持分を移しただけで職員問題も「自動解決」するとは絶対に考えないでください。
事業譲渡の場合
一方、医療法人が「事業」を別法人へ移す「事業譲渡」では、雇用契約の当事者が変わります。職員は元の法人と契約していたわけですが、新しい法人と改めて雇用契約を結ぶことが法律上必要になります。この場合、職員一人ひとりの個別同意が必要であり、同意しない職員は承継後の新法人には移れません。
事業譲渡では、引き継がれる職員の選定・労働条件の再設定・退職金の旧法人における精算など、複雑な実務が発生します。労働基準法・社会保険手続きの観点からも専門的な対応が求められるため、事前に弁護士・社会保険労務士と連携した準備が不可欠です。一般に持分譲渡よりも承継前の準備期間が長くなる傾向があります。
承継後に変わること・変わらないこと
持分譲渡によって雇用が「自動継続」される場合でも、すべてが変わらないわけではありません。承継後の変化と不変点を正確に把握し、職員との対話の中で誤解なく伝えることが信頼関係の出発点です。
変わること
経営方針・診療理念: 新しい理事長・院長の方針が導入されます。診療科の再編や診療時間・休日の変更、採用方針の見直しなど、運営ルールの変更が行われる場合があります。就任直後に細部まで変えようとせず、まず現場の実情を把握してから改革を進めることが、職員の離反を防ぐ上で重要です。
人事評価・給与体系: 中長期的には、新しい法人の人事制度に統合されることが多いです。ただし、急激な変更は離職リスクを高めるため、一定の猶予期間(通例1〜2年)を設けることが一般的です。評価制度の変更は、その内容と理由を職員に丁寧に説明することが求められます。
管理職ポスト: 理事・診療部長・看護部長など管理職の一部が変わることがあります。前任の理事長側の幹部が退任するケースも珍しくありません。承継後の組織図を早めに確定させることで、幹部層の不安を軽減できます。
変わらないこと
雇用契約そのもの(持分譲渡の場合): 労働条件通知書や就業規則が改定されない限り、賃金・勤務時間・休暇などの契約内容は継続されます。これを職員に明確に伝えることが最初のコミュニケーションとして有効です。
勤続年数・退職金の計算基準: 原則として勤続年数はリセットされません。退職金規程がある場合は、承継前後を通じてその規程に沿って算定されます。承継後の新体制が退職金規程を変更する場合は、就業規則の不利益変更として、労働者の過半数代表や労働組合の意見聴取が必要になります。
社会保険・厚生年金: 法人が同じであれば継続加入です。事業譲渡の場合は新しい法人で改めて加入手続きが必要になります。手続き漏れが起きると、職員に実害が生じることがあるため、社会保険労務士との連携が欠かせません。
以下の表に、スキーム別の変化の有無を整理します。
| 項目 | 持分譲渡 | 事業譲渡 |
|---|---|---|
| 雇用契約の当事者 | 変わらない | 新法人と再契約が必要 |
| 賃金・労働条件 | 規程改定まで継続 | 新法人の条件で再設定 |
| 勤続年数 | リセットされない | 通常リセットされない(協議次第) |
| 退職金(既往期間) | 規程に準じる | 旧法人から精算または引継ぎ |
| 社会保険 | 継続加入 | 新法人で再加入手続き |
| 個別同意の要否 | 不要 | 必要 |
職員への告知タイミングと段階的な情報開示
M&A交渉において最も扱いが難しいのが「情報管理」です。交渉初期から職員全体に周知することはできませんが、承継直前まで何も知らせないまま急に発表することも職員の信頼を大きく損ないます。告知タイミングの設計が、承継後の組織安定に直結します。
一般に病院M&Aにおける告知は、3つの段階で行われることが多いです。
第1段階:交渉初期(キーパーソンだけへの開示)
M&A交渉を始める時点では、情報は最小限に絞ります。一般的に告知対象は、現理事長・現院長と、交渉実務を担う事務長・財務担当者に限定されます。この段階でのリーク(情報漏洩)は交渉の破談につながるおそれがあるため、NDA(守秘義務契約)の締結を相手方との間だけでなく、社内の関与者との間でも取り交わすことが一般的です。誰が「知っている側」にいるかを明確にし、情報の出口を管理します。
第2段階:基本合意後(管理職層への段階的開示)
売買条件の基本合意書(LOI)が締結された後、デューデリジェンス(DD)が本格化します。DDの過程では、診療記録・財務データ・労務記録など多くの情報を開示・精査する必要があるため、各部門長・主任看護師・医事課長など管理職層に対して限定的に共有します。開示範囲と守秘義務の範囲を明文化し、情報管理を徹底することが求められます。
第3段階:最終合意・クロージング直前(全職員への発表)
最終的な契約締結の前後(通例クロージングの1〜2週間前)に、全職員を対象にした説明会を実施します。「なぜM&Aに至ったか」「雇用はどうなるか」「何が変わり何が変わらないか」を丁寧に説明します。承継後の新体制のビジョンも合わせて共有することで、不安の軽減につなげます。可能であれば承継先の新しい理事長・院長が直接出席し、顔と言葉で示すことが職員の安心感に大きく寄与します。
告知が遅すぎると噂が先行し、職員が自ら動き出す前に離職を決断してしまうリスクがあります。一方で早すぎる開示は交渉の破談を招く可能性があります。この難しいバランスをとるためにも、M&A仲介会社や専門アドバイザーと連携した情報管理戦略が有効です。
辞退・退職者が出た場合の対処法
告知後に「辞める」という職員が出ることは、ある程度避けられません。特に長年勤続してきた経験豊富なスタッフが離職すると、医療の継続性に直接影響します。承継後の安定運営のためにも、退職者への対応方針を事前に準備しておくことが重要です。
個別面談による丁寧な引き止め
退職の意向を示した職員には、すぐに書類手続きを進めるのではなく、まず個別面談を行います。なぜ辞めるのかを丁寧に聴き、不安や不満の根本を把握します。多くの場合、「将来の職場環境が分からない」「新しい経営者と合うか不安」という不確実性への不安が引き金です。具体的な回答(配置・役職・給与方針など)ができる範囲で示すことで、翻意するケースも少なくありません。面談は承継側の責任者が直接行うと、誠意が伝わりやすくなります。
承継前後に「処遇の激変緩和措置」を設ける
新体制になっても一定期間は現行の給与水準・役職を維持することを明示します。多くの承継案件では、クロージング後1〜2年程度のトランジション期間を設定し、この間は処遇を急激に変えないことを文書で約束します。承継側の新法人が「雇用条件は原則変えない」と明示的に約束することが、退職者を最小化する実務的かつ効果的な対策です。口頭ではなく書面で残すことが信頼獲得の鍵です。
採用計画を並行して立てる
M&A後に一定数の離職者が出ることを想定して、承継後の採用計画を事前に準備します。特に看護師・薬剤師など有資格者は全国的に採用難が続いており、退職者ゼロを前提とした人員計画は非現実的です。承継側の法人が持つ採用ネットワークや採用ブランドを活用することが、M&Aの重要なメリットの一つです。採用計画はクロージングの時点で最低限の骨格を固めておくことが望ましいです。
職種別に見る対応のポイント
病院には多くの職種が存在します。職種によってM&Aに対する関心事・不安の内容が異なるため、対応を一律にするのではなく、職種に応じたコミュニケーションが有効です。
医師(常勤・非常勤)
医師は病院の収益に直結する存在であり、主要な常勤医師が離職すると病院機能そのものが維持できなくなります。特に科長・部長クラスの医師は、大学医局との関係や後継ポストの有無が去就を左右します。承継後も「医局との関係を尊重する」「診療方針の大幅変更は行わない」「担当科の体制を維持する」という方針を明確にすることが重要です。また、非常勤医師は複数の病院を掛け持ちしているケースが多く、経営者交代を機に引き上げるリスクがあります。承継後早期に非常勤医師との個別契約を更新・確認することが必要です。
看護師・看護補助者
厚生労働省の2024年医療施設調査によれば、病院の看護職員の確保は地方を中心に引き続き厳しい状況にあります。看護師は職場の雰囲気・人間関係・夜勤体制を重視する傾向が強く、「新しい経営者の下でどんな職場になるか」を強く気にします。直属の看護師長が安心している状態が、スタッフ全体の安定に直結します。看護部門の主要管理職(看護部長・副看護部長)を早期に固め、その方々が現場スタッフに対してメッセージを発信できる体制を整えることが先決です。
事務職員・医療事務
事務長や医療事務担当は、診療報酬請求・契約管理・行政対応など法人運営の根幹を支えています。特に経験豊富な事務長は、法人の「暗黙知」(取引先との関係・過去のトラブル経緯・行政折衝の経緯など)を多く持つ存在です。承継後も一定期間(最低でも半年〜1年)はそのまま業務を継続してもらえるよう、引き留めのインセンティブ(特別手当・役職の継続・業務体制の維持など)を設計することが一般的です。事務長が抜けることで生じる「見えないコスト」は相当大きいと認識してください。
メディカルスタッフ(リハ・検査・放射線など)
理学療法士・作業療法士・診療放射線技師・臨床検査技師などの専門職は、職場の専門性環境と設備水準に強い関心を持ちます。「自分の専門スキルを活かせる環境が続くか」「設備が老朽化したまま放置されないか」という点を確認したいと考えています。承継後の設備更新計画・人材育成方針を早期に共有することで、安心感を醸成できます。また、回復期リハビリテーション病棟など特定機能に特化している場合、その機能を維持することを明確に示すことが重要です。
M&A後のPMIにおける人事・労務の整合
M&Aのクロージングは「ゴール」ではなく「スタート」です。承継後に両法人の人事制度・給与体系・就業規則を整合させていく「PMI(Post-Merger Integration:統合後のプロセス管理)」が、本格的な経営統合の核心です。人事・労務の整合を計画的に進めなければ、隠れたコストが顕在化し、承継のメリットを損ないます。
就業規則・労働条件の確認と整合(優先度:高)
労働基準法の観点から、雇用条件の不利益変更(賃金低下・休日削減など)は、職員の個別同意または就業規則変更の合理性が必要です。承継後まず行うべきは、旧法人と新法人の就業規則・給与規程・退職金規程を突き合わせ、不整合を洗い出す作業です。社会保険労務士との連携で、法的リスクの高い箇所を早期に特定します。特に「サービス残業が慣行化している」「退職金規程が実態と異なる」などの問題がDDで発見されていない場合、承継後の労務リスクとして顕在化することがあります。
給与体系・評価制度の段階的整合(優先度:中)
承継前後で給与水準に大きな差がある場合(たとえば承継側の法人の方が給与体系が高い、または低いなど)は、経過措置(調整給)を設けることが一般的です。すぐに完全統合するのではなく、2〜3年かけて段階的に整合させる方が、現場の混乱と離職リスクを最小化できます。人事評価制度の統合は給与水準の統合よりもさらに慎重に進める必要があります。職員にとって評価の基準や透明性の変化は、モチベーションに直結するためです。
組織文化・コミュニケーションの統合(優先度:中長期)
「合併した別の病院から来た人」という感覚が残ると、職員間に心理的な壁が生まれ、業務連携に支障をきたします。合同研修・交流会・共通理念の策定といった文化統合の取り組みは、短期では成果が見えにくいですが、中長期の定着率改善と組織力強化に直結します。PMI開始後、少なくとも1〜2年の期間を見て継続的に取り組む必要があります。
病院の人件費は医業費用の5〜6割を占めるとされており、人事制度の不整合が放置されると追加コストとして跳ね返ります。四病協の2025年度病院経営定期調査では、医業赤字法人は74.6%に達しており、承継後も赤字が続くケースは決して珍しくありません。PMIにおける人事・労務の安定化は、承継後の経営改善のための最初にして最も重要なステップです。
また、令和8年度診療報酬改定では入院ベースアップ評価料が最大250点へ拡充されており、承継後の職員賃上げの原資となりうる加算を確実に算定できる体制を整えることも、PMIの重要な課題として位置づけるべきです。
まとめ
病院M&Aにおける職員・スタッフへの影響は、採用したスキームによって大きく異なります。持分譲渡では雇用は自動継続されますが、告知と対話が鍵となります。事業譲渡では職員の個別同意が必要で、労務手続きが複雑になります。
承継を成功させるための実務ポイントは、①段階的で正直な情報開示、②雇用条件の激変緩和措置、③職種別の個別コミュニケーション、④PMIを見据えた計画的な人事制度整合、の4点です。
「職員を守る」という姿勢は、単なる義理ではなく、承継後の医療の質と経営の安定を確保するための合理的な選択です。医療機関の後継者不在率が6割超に上る今、M&Aを検討している法人は、早い段階から労務・法務の専門家を交えた準備を進めることをお勧めします。
関連記事
出典・参考文献
- 帝国データバンク 医療機関の倒産・休廃業解散動向調査(2025年)
- 帝国データバンク 全国「病院経営」動向調査(2024年度)
- 四病院団体協議会 2025年度 病院経営定期調査 結果報告(2025年11月)
- GemMed 医業赤字74.6%・経常赤字65.6%(四病協最終報告の解説)
- 厚生労働省 令和6(2024)年 医療施設(動態)調査・病院報告の概況
- GemMed 2026年度改定答申: 基本診療料アップ・物価対応料新設・ベースアップ評価料拡充
無料メールで病院経営の実務メモを受け取る
診療報酬・加算・承継・経営改善の重要ポイントを、経営判断に使える短いメモとして届けます。