医療法人のM&Aや事業承継を検討するとき、多くの理事長・院長が最初に気にするのは「売却価格はいくらか」「後継者候補はどこか」といった点です。しかし、基金拠出型の医療法人において基金返還請求権を整理せずに承継を進めると、クロージング後に深刻なトラブルに発展することがあります。
基金返還請求権は、出資持分と似ているようで本質的に異なる権利です。それが民法上の金銭債権として旧拠出者に残り続けるという特性が、譲渡後になって問題化するケースが後を絶ちません。特に、2007年の医療法改正以降に設立された持分なし法人の多くは基金拠出型であり、現在の病院M&A増加のトレンドの中でこの問題に直面する機会は増えています。
本記事では、基金返還請求権の法的性質を正確に理解した上で、M&A・承継における権利整理の具体的な実務手順を解説します。財務計画への組み込み方や、見落としがちな落とし穴と対処法まで、事務長・院長・理事長が実務の場で使える内容に絞ってお伝えします。
なぜ今、基金返還請求権が重要になっているのか

医療業の後継者不在率は6割を超えています。 帝国データバンクの2025年調査では、医療機関の倒産が66件、休廃業・解散が823件と2年連続で過去最多を更新しました。診療所経営者の56.7%が70歳以上という年齢構成を考えると、今後もこの傾向は続くと見られます。後継者が見つからない医療機関が選ぶ現実的な選択肢の一つが、M&Aによる第三者への承継です。
病院M&Aは2010年代後半から増加傾向が続いており、特にコロナ禍を経た2021年以降は中小病院・有床診療所の案件が急増しています。売り手となる医療法人の多くが、2007年の医療法改正以降に設立または移行した**「基金拠出型法人」(持分なし法人の一形態)**です。基金拠出型法人では、拠出者が拠出した金銭に対して基金返還請求権という特有の権利が生じます。
しかし、M&Aの実務現場では、この基金返還請求権が十分に整理されないまま承継が進んでしまうことがあります。なぜ見落とされるかといえば、財務デューデリジェンス(DD)においても法務DDにおいても、担当者が「持分がない法人だから権利関係はシンプル」と誤解するケースが多いためです。
持分なし法人は確かに出資持分という概念がありません。しかし、基金拠出型法人には基金という負債に近い性格を持つ資金が存在し、その返還を求める権利が旧拠出者の手に残ります。M&Aクロージング後に旧理事長や旧役員から「基金を返してほしい」という要求が来たとき、新経営体制がその義務を引き継いでいたとすれば、準備なしには対応できません。
また、基金を拠出したのが現理事長の個人資金であり、M&A後にその理事長が退任するという場面では、基金返還請求権の帰趨が退任条件の核心になることもあります。承継の前段階でこの権利を整理しておかなければ、売買価格の合意後に追加交渉が発生し、案件そのものが破談になるリスクも排除できません。
後継者不在率が高く、M&A件数が増加するこの時代において、基金返還請求権は「知っている人だけが得をする」知識ではなく、承継を検討するすべての医療法人関係者が押さえておくべき基礎知識になっています。
基金返還請求権とは何か — 法的性質を正確に理解する

基金は、医療法第54条の5以下に根拠を持つ、医療法人に固有の制度です。 基金とは、医療法人がその業務のために拠出を受けた金銭その他の財産であり、法人は定款の定めに従って、拠出者に対してこれを返還する義務を負います。この返還を求める権利が「基金返還請求権」です。
民法の観点からは、基金返還請求権は金銭債権として位置づけられます。つまり、特定の人物(拠出者)が特定の法人(医療法人)に対して、一定の金銭の支払いを求めることができる権利です。債権は原則として譲渡可能であり(民法第466条)、また相続によって承継されます。このことは、基金拠出者が死亡した場合には相続人がこの権利を取得し、法人に対して返還を求めることができることを意味します。
出資持分との最大の違いは、経営成果による増殖分を受け取れないという点です。 経過措置型の持分あり法人では、出資者は解散時に持分割合に応じた残余財産を受け取ることができ、法人の純資産が膨らんでいれば拠出額を大きく上回る金額が戻ることがあります。一方、基金拠出型法人の基金返還請求権は、あくまでも拠出した元本(または定款・基金規程に定められた額)の返還を請求できるにとどまります。 法人の利益や純資産の増加部分を受け取る権利はありません。
この性質は、拠出者にとっては「投資リターン」を期待できないことを意味する反面、法人にとっては「増殖した純資産を守れる」という意義があります。医療法が基金拠出型を推奨している背景の一つは、医療機関の財産が個人の私的利益に帰することを防ぐという公益的な考え方にあります。
以下の表で、医療法人の3タイプの権利構造を整理します。
| 項目 |
持分あり法人(経過措置型) |
基金拠出型(持分なし) |
純粋持分なし(基金なし) |
| 権利の種類 |
出資持分 |
基金返還請求権(金銭債権) |
なし |
| 解散時の財産帰属 |
持分割合に応じて分配可 |
基金額(元本)のみ返還 |
国・地方公共団体等に帰属 |
| M&A時の主な論点 |
持分評価・譲渡価格 |
基金返還請求権の整理 |
権利整理は不要 |
| 承継時のリスク |
出資持分の高額評価、相続税 |
返還請求権の見落とし |
比較的シンプル |
この表からも分かるとおり、基金拠出型法人のM&A・承継においては、「基金返還請求権の整理」が固有の重要課題です。持分あり法人の承継では持分評価が最大の論点になりますが、持分なし法人だからといって権利関係がシンプルであるとは限りません。基金規程の内容によっては、返還時期や返還額の計算方法が複雑なこともあります。
また、基金は貸借対照表上、純資産の部に計上される場合と、負債の部に計上される場合があり、会計処理の取り扱いについても確認が必要です。いずれにしても、基金返還請求権という民法上の債権が旧拠出者に帰属している事実を、関係者全員が共通認識として持つことが承継成功の出発点となります。
基金返還請求権の譲渡 — できる場合とできない場合

基金返還請求権は民法上の金銭債権ですから、原則として民法第466条に基づき譲渡することが可能です。 たとえば、旧理事長が保有する基金返還請求権を後継理事長に譲渡する、あるいは承継スキームの中でM&Aの買い手が取得するといった処理が法的には考えられます。
ただし、実務においては以下のような制限・手続きを慎重に確認する必要があります。
第一に、定款および基金規程に譲渡制限が設けられている場合があります。 医療法人の定款には基金に関する規定を盛り込むことが多く、その内容によっては「基金返還請求権は第三者に譲渡できない」「法人の承諾なしに譲渡してはならない」といった条件が付されていることがあります。この場合、無断で譲渡を行っても法人に対しては効力を主張できないリスクがあります。
第二に、民法第467条の債権譲渡の対抗要件を具備する必要があります。 基金返還請求権を譲渡する場合、譲渡したことを法人に通知するか、法人の承諾を得る必要があります。この手続きを怠ると、法人側が「通知を受けていない」として旧拠出者への返還をもって義務を履行したとみなされ、新たな権利者(譲受人)が権利を主張できなくなる事態が生じ得ます。
第三に、承継相手(後継理事長やM&Aの買い手)と旧拠出者の間で、権利処理について明確な合意を形成することが不可欠です。 選択肢は大きく三つあります。(1)承継前に法人が拠出者に基金を返還して権利を消滅させる、(2)権利を後継者または法人指定の第三者に譲渡する、(3)旧拠出者が引き続き権利を保有しM&A後の法人に対して返還請求できる状態を維持する、という三択です。どの選択肢が適切かは、法人の財務状況、定款の内容、旧拠出者の意向によって異なります。
無断譲渡のリスクは特に注意が必要です。 承継スキームの設計段階で旧拠出者への説明が不十分なまま手続きを進めると、後から「基金の返還を求める権利が不当に処理された」として紛争に発展することがあります。旧拠出者が承継後の法人に対して直接請求を続ける可能性も消えません。
また、基金返還請求権が相続によって移転している場合も考慮が必要です。旧理事長が既に死亡している場合には、相続人(複数いれば法定相続分に応じて分割承継されている可能性)に連絡を取り、権利の現在の帰属を確認しなければなりません。相続人が複数いる場合は、全員との合意形成が必要になるため、時間的コストを見積もった上でスケジュールを設定してください。
実務上のポイントをまとめると、**「定款・基金規程の確認→権利の現在の帰属確認→譲渡・返還の選択→通知・承諾の手続き→書面化」**という順で進めることが、リスクを最小化する王道です。いずれの段階も弁護士の関与を推奨します。
M&A・承継における権利整理の5ステップ

M&A・承継の場面で基金返還請求権を適切に整理するためには、以下の5つのステップを順序立てて実施することが重要です。各ステップを省略したり並行して進めたりすると、後工程で矛盾が生じやすくなります。
ステップ1:基金総額・拠出者リストの把握(デューデリジェンス)
最初のステップは、法人内の基金の実態を数字として把握することです。財務諸表(貸借対照表の純資産の部または負債の部)に計上されている基金の総額を確認するとともに、法人内に保管されている基金台帳・拠出者一覧を取り寄せます。
実務上、財務諸表と台帳の金額が一致していないケースも見受けられます。拠出者が複数いる場合や、設立から長年が経過している場合には特に注意が必要です。相続によって権利者が変わっている場合を含め、現在の実質的な権利者を漏れなく把握します。DDのチェックリストに「基金台帳の照合」を明記し、売り手側に開示を求めることが重要です。
ステップ2:定款・基金規程の確認(返還条件・時期・利率)
次に、定款および基金規程の内容を詳細に確認します。チェックすべき主な項目は次のとおりです。
- 返還時期・条件:解散時のみに返還するのか、運営中も随時返還できるのか
- 返還額の計算方法:拠出額そのままか、物価変動等を考慮した調整があるか
- 付利の有無:利息に相当する何らかの付利が設けられているか
- 譲渡制限の有無:前述のとおり
- 返還の優先順位:他の債権との関係
これらの条件を把握しなければ、次のステップの財務試算が成り立ちません。定款は登記事項ではないため、法人から直接提供を受ける必要があります。
ステップ3:純資産と返還可能額の試算(財務DDの一環)
基金返還請求権の整理において、法人が実際に返還できる財源があるかどうかを確認することは欠かせません。四病院団体協議会の2024年度病院経営定期調査(最終報告)によると、病院の医業赤字が74.6%、経常赤字が65.6%に達しています。赤字法人では、基金を即時返還しようとすると資金繰りが破綻しかねません。
財務DDの中で、「返還を実施した場合の財務シミュレーション」を作成し、返還後も法人が継続的に運営できるかどうかを確認します。返還可能額は、純資産の水準、手元流動性、今後の収益予測を総合して判断します。試算結果によっては、一括返還ではなく分割返還という条件に変更する交渉が必要になることもあります。
ステップ4:拠出者との合意形成(返還・権利移転・継続保有)
実態把握と財務試算が完了したら、旧拠出者に対して選択肢を提示し合意を形成します。前述の三つの選択肢(返還・権利移転・継続保有)それぞれのメリット・デメリットを説明した上で、旧拠出者の意向を確認します。
合意内容は必ず書面(合意書・覚書)として記録します。口頭合意にとどめると、後になって「そんな話はしていない」という紛争に発展する可能性があります。承継前に弁護士が作成した合意書を取り交わすことを強く推奨します。
拠出者が複数いる場合は、全員から個別に合意を得る必要があります。一人でも未整理の状態でクロージングを迎えると、その後も返還請求権が未処理のまま残存することになります。
ステップ5:返還実行または権利移転の手続き実施・記録
最後のステップは、合意した内容を実際に手続きとして実施し、記録を残すことです。返還を選択した場合は返還金の支払いと領収書の取得、権利移転を選択した場合は民法第467条に基づく対抗要件の具備(法人への通知または承諾)を行います。
これらの手続きを完了した証跡を、法人の文書管理システムに保存します。M&A後の経営陣が将来にわたって状況を確認できるよう、何を、いつ、誰と、どのような条件で合意し実施したかを記録した台帳を整備することが望ましいです。
返還財源の確保と財務計画への組み込み

基金返還請求権の整理において、もう一つ見落とされがちな論点が返還財源の確保と財務計画への組み込みです。権利関係の整理だけに目が向きがちですが、実際に返還を実行するには資金が必要であり、そのタイミングを誤ると法人の資金繰りを圧迫します。
帝国データバンクの2024年度調査によると、民間病院約900法人の営業赤字は61.0%に達しています。この数字が示すとおり、多くの病院は潤沢な手元資金を持っているわけではありません。基金返還のタイミングと金額が財務計画に組み込まれていない場合、予期せぬ資金不足が生じるリスクがあります。
具体的に注意すべき点は以下のとおりです。
純資産・基金積立金との関係。 基金返還後に純資産が大幅に減少すると、金融機関の財務審査で問題視されることがあります。融資の維持・新規調達に影響が出る可能性を事前に試算しておく必要があります。基金返還を含めた財務シミュレーションを3〜5年スパンで作成し、各期末の純資産・自己資本比率・流動比率がどのように推移するかを確認してください。
病院の借入金・WAM融資との優先順位。 多くの病院は福祉医療機構(WAM)からの長期融資を受けています。基金返還と融資返済が重なる時期には、キャッシュフローが極めてタイトになることがあります。WAMは病院経営動向調査を定期的に公表しており(福祉医療機構、2025年6月調査)、経営状況の悪化が確認された場合には融資条件の見直しを求められることもあります。基金返還のスケジュールはWAM融資の返済計画と整合させることが重要です。
財務計画への組み込み方として実務上有効なのは、「基金返還準備金」を概念的に設定し、毎期一定額を積み立てる運用方針を定めることです。これは会計上の科目として設定するというよりも、資金繰り計画の中で「この時期にこの金額が出ていく」というシナリオを明示しておくことです。M&Aのクロージング時点でこの計画を新経営陣に引き継ぐことで、承継後の財務管理がスムーズになります。
なお、基金返還を一括で行う余力がない場合には、定款を改正して分割返還を可能にする方法も検討に値します。ただし、定款変更には社員総会の決議と都道府県知事の認可が必要であり、手続きに時間がかかります。財務的な制約がある場合は、早めに手続きを開始することが欠かせません。
よくある落とし穴と対処法

基金返還請求権の整理において、実務上繰り返し見られる落とし穴とその対処法を整理します。
落とし穴①:DDで基金の存在を見落とす
最も多い失敗は、デューデリジェンスの段階で基金の存在自体を見落とすことです。 財務DDを担当する会計士が法人の財務諸表を確認する際、「持分なし法人だから権利関係はシンプル」と判断して基金の詳細確認を省略するケースがあります。また、法務DDを担当する弁護士が定款を確認しても、基金に関する条項の解釈を深掘りしないことがあります。
対処法:M&AのDD項目リストに「基金台帳の提出と照合」「基金規程の確認」を明示的に追加してください。財務担当と法務担当が連携して確認することで、見落としを防ぐことができます。
落とし穴②:返還タイミングを口頭合意のみで進める
基金返還について旧拠出者と「口頭で了承を得た」とだけ記録している場合、後から「そのような合意をした覚えはない」「金額が違う」という紛争が起きるリスクがあります。特に承継交渉が複数回にわたる場合、誰が何をどこまで了承したかが曖昧になりがちです。
対処法:返還条件・時期・金額・方法を明記した合意書を弁護士に作成してもらい、当事者全員の署名を得てください。合意書は少なくとも2通作成し、法人と拠出者双方が保管します。
落とし穴③:基金返還に伴う税務(益金計上の可否等)を誤解する
基金返還を受けた拠出者側の税務処理(所得税・法人税)と、返還を行った医療法人側の税務処理はそれぞれ慎重な確認が必要です。基金は出資ではないため、返還を受けても通常は利益として課税されませんが、付利が設けられていた場合や、元本を超える額が返還される設計になっていた場合には課税関係が複雑になります。
対処法:医療法人の税務に詳しい税理士・公認会計士に事前に相談し、税務処理の方針を確定した上で実行してください。処理方針を書面で記録しておくと、後から税務調査が入った場合にも説明がしやすくなります。
落とし穴④:定款変更なしに返還条件を変えようとする
基金規程に定めた返還条件(時期・金額計算方法など)を変更したい場合、定款変更が必要になることがあります。 定款変更には社員総会での特別決議と、都道府県知事への認可申請が必要であり、認可が下りるまでに数か月かかることがあります。この手続きをM&Aのスケジュールに組み込まずに進めると、クロージング日に間に合わないという事態が起きます。
対処法:返還条件の変更が必要かどうかを早期に確認し、定款変更手続きが必要なら所要期間を見積もった上でスケジュールに組み込んでください。社員総会の招集にも一定のリードタイムが必要です。
落とし穴⑤:返還後の財務悪化で金融機関との関係が悪化する
基金返還を実行した結果、法人の純資産や手元流動性が大幅に悪化し、金融機関(銀行・WAM)との融資取引に支障が生じることがあります。特に、承継後の法人が新たな設備投資や改修を計画していた場合、融資審査が通らなくなるリスクがあります。
対処法:基金返還を実行する前に、主要な取引金融機関・WAMに対して返還計画を説明し、理解を得た上で実行することが重要です。財務シミュレーションを添えて説明すれば、金融機関の懸念を和らげることができます。事前の対話を怠ると、返還後の財務悪化が「情報開示の不足」として信頼関係の毀損につながることがあります。
まとめ
基金拠出型の医療法人でM&Aや承継を進める場合、基金返還請求権は必ず整理しなければならない権利です。この権利は民法上の金銭債権として旧拠出者に帰属し、出資持分とは異なる性格を持ちます。
整理の手順は「基金総額・拠出者リストの把握→定款・基金規程の確認→財務試算→拠出者との合意形成→手続き実施・記録」の5ステップです。いずれのステップも専門家(弁護士・税理士・公認会計士)との連携が不可欠です。
また、返還財源の確保と財務計画への組み込みを怠ると、クロージング後の資金繰りに深刻な影響が出ることがあります。後継者不在率6割超という厳しい環境の中で、医療機関の承継を成功させるためには、このような見落とされがちな権利関係の整理こそが、長期的な経営安定の土台になります。
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