「募集をかけても応募が来ない。せっかく採用しても、数年で辞めてしまう。そのたびに残った職員に負担が偏り、また誰かが辞めていく」——人手不足と物価高、そして賃上げの重圧のなかで、そうした悪循環に頭を悩ませている理事長・院長・事務長は少なくないはずです。病院のコストの5〜6割は人件費とされますが、その人件費は「払っているのに人が定着しない」状態では、経営にとって二重の負担になります。採用と教育にかけた費用が、退職とともに流れ出てしまうからです。本記事では、病院の離職率をどう捉え、なぜ人が辞め、定着が経営にどう効き、賃上げや処遇改善の流れをどう生かすかを、実務目線で整理します。なお、離職率の水準や具体的な施策の効果は施設の規模・地域・診療機能によって大きく異なり、本記事は一般的な考え方の整理である点を、あらかじめお断りします。
なぜ今、病院の離職率が経営を左右するのか
離職の問題を「現場の労務管理の話」と片づけてしまうと、経営の本丸を見失います。背景には、病院経営全体の厳しさと人手不足の深刻化が重なっているからです。四病院団体協議会の2024年度調査によると、病院の**医業赤字は74.6%、経常赤字は65.6%**にのぼるとされ、多くの病院が本業の医療で赤字を抱えています。GemMedの解説でも、この赤字の広がりは繰り返し指摘されています。帝国データバンクの2024年度調査でも、民間病院の営業赤字は6割を超えるとされ、収益環境は容易には改善しません。
こうした厳しい環境のなかで、収入を支えるのは結局のところ現場で働く人です。病床利用率を保つにも、加算をとれる体制を維持するにも、一定の人員が欠かせません。看護師をはじめとする医療スタッフが辞めれば、基準を満たす人員配置が崩れ、算定していた入院料や加算の維持が危うくなる恐れがあります。人が抜けた穴を埋めるための採用にも費用がかかり、残った職員の負担が増えれば、その職員がまた辞める——離職は、収入と費用の両面から経営を静かに蝕むのです。だからこそ、離職率を下げ、定着率を高めることは、単なる労務の話ではなく、経営そのものの課題だと捉える必要があります。
離職率をどう捉えるか — 数字の読み方と目安
対策を打つ前に、まず自院の離職の実態を数字でつかむことが出発点です。「なんとなく辞める人が多い気がする」という感覚のままでは、どこに手を打てばよいかが定まりません。離職率は一般に、一定期間内に退職した職員数を、期首の在籍者数などで割って算出する指標です。ただし、分母や集計期間の取り方は施設によって異なるため、他院の数字と単純に比べるより、自院の数字を同じ定義で毎年追い、傾向を見るほうが実務的です。
大切なのは、全体の離職率という一つの数字で満足せず、分解して見ることです。職種別(看護師・看護補助者・医療技術職・事務など)、部署別(病棟・外来・手術室など)、勤続年数別(入職1年以内・数年目・中堅以降)に分けると、離職が集中している場所が浮かび上がります。特に、入職して間もない時期の離職と、中堅層の離職とでは、背景も打ち手もまったく異なります。前者は受け入れ体制や教育の問題であることが多く、後者はキャリアや処遇、負担の偏りに起因することが少なくありません。
| 分解の切り口 | 見えてくること | 主な対策の方向 |
|---|---|---|
| 職種別 | どの職種で流出が多いか | 職種特有の負担・処遇の点検 |
| 部署別 | 特定部署への集中 | 業務量・人間関係・管理職の状況 |
| 勤続年数別 | 早期離職か中堅離職か | 教育体制かキャリア・処遇か |
なお、離職率は低ければ低いほど良いとも限りません。組織の新陳代謝がまったくない状態にも課題はあります。過度に高い離職を放置しないことが目的であり、ゼロを目指すことではない、という点は押さえておきたいところです。まずは自院の数字を分解し、どこで、いつ、誰が辞めているのかを可視化することから始めてください。
なぜ人は辞めるのか — 離職の主な要因
数字で辞める場所が見えたら、次はその理由に踏み込みます。医療スタッフが職場を離れる背景は一つではなく、複数の要因が絡み合っているのが通常です。ここを表面的に捉えて「給料を上げれば解決する」と考えると、打ち手を誤ります。処遇は重要な要因の一つですが、それだけではないからです。
離職の要因は、大きく「労働環境」「人間関係」「処遇・評価」「キャリア」の四つの領域に整理して考えると見通しが立ちます。労働環境は、夜勤や時間外の負担、休みの取りにくさ、業務量の偏りなど、日々の働きやすさに直結する部分です。人間関係は、上司や同僚との関係、ハラスメントの有無、相談できる相手がいるかどうかで、離職理由として繰り返し挙げられる領域です。処遇・評価は、給与水準はもちろん、頑張りが正当に評価され報われていると感じられるかという納得感の問題です。キャリアは、この職場で成長できる展望が描けるか、学びや役割の広がりがあるかという点です。
これらは互いに独立ではなく、絡み合っています。負担が重いのに評価されず、相談相手もいなければ、辞める理由は積み重なります。逆に、給与が飛び抜けて高くなくても、働きやすく、認められ、成長を感じられる職場は、人がとどまりやすいものです。「なぜ辞めるのか」を思い込みで決めつけず、退職者への面談や職員へのアンケートで実際の声を拾うことが、的を射た対策の前提になります。四病院団体協議会の調査でも、人材の確保・定着は経営上の重要課題として位置づけられています。
離職が経営に与えるコスト — 見えにくい損失
離職対策への投資をためらう理由の一つは、「辞められて困るのは分かるが、いくら損しているのかが見えない」ことにあります。離職のコストは、退職金のように帳簿に一行で出るものではなく、複数の見えにくい費用として分散しているからです。ここを可視化すると、定着への投資が「費用」ではなく「回収可能な投資」に見えてきます。
離職に伴うコストは、大きく次のように分けられます。第一に採用コストで、求人広告費、人材紹介会社への手数料、採用にかかる担当者の時間などです。医療職は採用競争が激しく、この費用は決して小さくありません。第二に教育・立ち上がりのコストで、新しく入った職員が独り立ちするまでの研修や指導にかかる時間と、その間の生産性の低下です。第三に残った職員への負担で、欠員のあいだの業務のしわ寄せが、さらなる離職を呼ぶ連鎖です。第四に機会損失で、人員不足によって病床の稼働や加算体制を維持できなくなれば、収入そのものが減りかねません。
| コストの区分 | 主な中身 | 経営への影響 |
|---|---|---|
| 採用コスト | 求人費・紹介手数料・採用工数 | 直接の支出増 |
| 教育コスト | 研修・指導・立ち上がりの遅れ | 生産性の一時的低下 |
| 残る職員の負担 | 業務のしわ寄せ・連鎖離職 | さらなる流出を招く |
| 機会損失 | 稼働・加算体制の維持困難 | 収入の減少リスク |
こうして並べると、一人の離職が生む損失が、目に見える支出よりずっと大きいことが分かります。裏を返せば、定着率を高めることは、これらのコストをまとめて減らす取り組みでもあります。病院200床・入院単価5万円のケースで、病床利用率が1ポイント動くだけで年間およそ3,650万円の増収に相当するとされるように、人員が安定して稼働を保てることの経営インパクトは大きいのです。福祉医療機構(WAM)の病院経営動向調査でも、人材の確保難は経営を圧迫する要因として繰り返し挙げられています。
定着率を高める打ち手 — 何から始めるか
要因とコストが見えたら、いよいよ打ち手です。ここで大切なのは、あれもこれもと一度に手を広げず、自院の離職が集中している場所から優先順位をつけることです。早期離職が多いなら受け入れと教育、中堅離職が多いならキャリアと処遇、というように、前段で分解した数字が打ち手を教えてくれます。
具体的な打ち手は、いくつかの層に分けて考えられます。まず受け入れ・教育の整備です。入職後の一定期間、指導役をつけて丁寧に支える仕組み(プリセプター制度など)や、悩みを早めに拾う定期的な面談は、早期離職を防ぐ基本とされます。次に働き方の改善で、業務の偏りをならし、勤務表を工夫し、看護補助者やタスク・シフティング(業務の分担見直し)で専門職の負担を軽くする取り組みです。そして評価と対話の仕組みで、頑張りが処遇に反映される納得感のある人事評価制度や、上司との定期的な対話の場を整えることです。最後にキャリアの見通しで、院内の研修や資格取得の支援、役割の広がりを示すことが、中堅層の定着につながります。
これらはいずれも、一度導入して終わりではなく、続けてこそ効果が積み上がります。管理職(師長・主任など)の存在が離職を左右する点も見落とせません。現場のマネジメントを担う中間管理職が疲弊していれば、その部署全体の定着は揺らぎます。管理職への支援や研修もまた、定着策の重要な一部です。人事評価制度の設計や事務長・経営企画部門の役割については、関連記事もあわせて参考にしてください。目に見える一発の妙手はありません。地道な仕組みの積み重ねが、静かに離職を減らしていくのです。
賃上げ・処遇改善の流れをどう生かすか
最後に、制度の追い風をどう定着につなげるかを考えましょう。近年は医療従事者の賃上げが政策的に重視されており、令和8年度診療報酬改定では本体が**+3.09%とされ、その内訳には賃上げ対応分+1.70%**が含まれるなど、処遇改善を後押しする方向が鮮明です。日医on-lineやGemMedの解説でも、この改定率と賃上げの位置づけが取り上げられています。
制度面では、入院ベースアップ評価料が最大250点へ拡充される見込みとされ、看護職員をはじめとする医療従事者の賃上げを診療報酬で支える仕組みが強化される方向です。あわせて、看護・多職種協働加算(加算1:277点、加算2:255点)の新設など、多職種が協働して働く体制を評価する項目も設けられる見通しとされています。これらは令和8年度改定に基づく内容で、施行は2026年6月1日とされます。ただし、具体的な算定可否や要件は、施設基準や届出の状況によって異なり、確認が必要です。本記事の情報だけで算定を断定せず、必ず一次情報と専門家への確認を前提としてください。
こうした制度を「もらえる報酬」として受け取るだけでなく、職員の処遇改善と定着に確実につなげる設計にすることが肝心です。賃上げの原資を得ても、それが職員に届き、納得感のある形で配分されなければ、定着にはつながりません。評価制度と結びつけ、頑張りが報われる仕組みとして運用してはじめて、制度は生きます。とはいえ、公定の報酬で人件費の上昇をすべて吸収できるとは限らず、費用構造の見直しや収入の確保といった経営努力と両輪で進める必要があります。制度は、あくまで定着を支える追い風であって、それ自体が定着を保証するものではない——この視点を忘れないでください。
まとめ — 定着は「守り」ではなく「攻め」の経営
病院の離職率を下げ、定着率を高めることは、人手不足と物価高、賃上げの重圧に直面する病院にとって、収入と費用の両面に効く経営課題です。まずは自院の離職率を職種別・部署別・勤続年数別に分解し、どこで誰がいつ辞めているのかを可視化することが出発点になります。そのうえで、労働環境・人間関係・処遇・キャリアという複数の要因を思い込みで決めつけず、実際の声から探ります。離職のコストは見えにくく分散していますが、可視化すれば、定着への投資が回収可能な投資であることが見えてきます。
打ち手は、受け入れ・教育、働き方、評価と対話、キャリアの見通しを、自院の弱い部分から地道に積み重ねること。そして令和8年度改定の賃上げ・処遇改善の流れを、職員に確実に届く形で生かすことです。定着は、辞められないための「守り」ではなく、安定した人員で稼働と質を保つ「攻め」の経営そのものだと捉えてください。まずは、自院の離職率を正しい定義で一つの数字にするところから始めてみてはいかがでしょうか。
よくある質問
Q1. 離職率は何%以下を目指せばよいですか。 一概に「何%以下が正解」とは言えません。適正な水準は、病院の規模・地域・診療機能・職種構成によって大きく異なるためです。他院の数字と単純に比べるより、自院の数字を毎年同じ定義で追い、悪化していないか、特定の職種や部署に偏っていないかを見るほうが実務的です。目的は過度に高い離職を放置しないことであり、ゼロを目指すことではありません。
Q2. 給与を上げれば離職は止まりますか。 処遇の改善は重要ですが、それだけで解決するとは限りません。離職の背景には、労働環境や人間関係、キャリアの見通しなど複数の要因が絡み合っています。負担が重く、評価されず、相談相手もいない職場では、給与だけ上げても定着は難しいものです。賃上げの原資を、納得感のある評価と働きやすさの改善とあわせて設計することが、定着につながります。
Q3. 診療報酬の賃上げ関連の加算は、うちの病院でも算定できますか。 算定の可否は、施設基準や届出の状況によって異なり、本記事の情報だけで断定はできません。令和8年度改定では入院ベースアップ評価料の拡充や看護・多職種協働加算の新設などが見込まれるとされますが、要件の確認が必要です。厚生労働省の一次情報を確認し、必要に応じて専門家に相談したうえで、算定候補として検討してください。